アスペルガーのメソッド

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感動ポルノと言っている、そんな「バリバラ」こそ本当の感動ポルノだと思う

感動ポルノとは何か

わたしは、感動したり、感動させることが大好きです。わたしは、障害者であり、メディアの制作者でもあります。それで、この問題が他人事ではないと感じ、記事にしたいと思いました。

今日のテーマは今さら感がありますが「感動ポルノ」です。収まったかと思った論説が雨後の筍のように、またニョキニョキと出てきました。

感動ポルノとは何か。
故ステラ・ヤング氏によると、

この言葉は、障害者が障害を持っているというだけで、あるいは持っていることを含みにして、「感動をもらった、励まされた」と言われる場面を表している。−Wikipedia

それを「感動ポルノ(英語: Inspiration porn) 」と定義付けたのが始まりのようです。

感動ポルノと批判する、そんな、あなたが本当の感動ポルノ

さて「24時間テレビ」こそ「感動ポルノ」の典型で、それを指摘した裏番組であるNHKの「バリバラ」は、まるで正しいことを言っているかのような風潮もネットの記事に散見されます。

確かに「バリバラ」の指摘は「24時間テレビ」のマンネリ化した番組構成を批判するには、かなり当たっている部分もあります。

しかし、「24時間テレビ」を「感動ポルノ」と言うのであれば、「バリバラ」という番組自体も障害者をテーマに視聴率を得ようとしている点で「24時間テレビ」と何が違うのでしょうか。

「バリバラ」番組内の「疑似ドキュメンタリー」で提示した番組構成なんて、過去の番組を振り返らなくても、今でも十分、NHKの十八番のように思います。

意外と指摘されていませんが、障害者中心に番組を企画し、これだけ強烈な印象を与え、人の心を動かしたという意味では、「バリバラ」のほうがむしろ本当の「感動ポルノ」ということになりはしませんか。

がんと戦う人のブログに感動するのも、感動ポルノですか?

さて、この時期、がんと戦う小林麻央さんのブログに強く心を揺さぶられている自分がいます。よくぞ公表したなと思いますし、一つ一つの言葉に重みを感じます。

障害者を感動の対象とすることを「感動ポルノ」と揶揄して、批判するNHKの考え方からすると、小林麻央さんのブログも感動ポルノに該当するのでしょうか。

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かんどう
【感動】
《名・ス自》物に深く感じて、心を動かすこと。 「―を与える」

Wikipedia

ポルノグラフィとは、ウェブスターの「国際辞典」の定義によれば、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を(文章または絵などで)表現したもの」と定義している。

この2語を足して、感動ポルノ・・・ いったい誰が得をするんでしょう。

と、話は以上なんですが、ここから下は、もう少し別の角度から論じてみたいと思います。

障害者に感動したらいけませんか

古今東西、人は人を感動させてきました。感動は明日への力です。自分が落ち込んでいるとき、自分よりはるかに大きな困難を乗り越えようとしている人を知ると感動します。そして、大きなパワーをもらいます。

たとえば、子どものころヘレン・ケラーの伝記を読んで、「自分は目も耳も聞こえて良かった」なんて思った人がどれくらいいるのでしょうか。むしろ「障害の壁を超えようとした姿」に力をもらうのではないでしょうか。あなたは、子どもにこれは感動ポルノだからと、取り上げるでしょうか。

障害者は感動どころの話ではなかった

わたしは発達障害者です。いま、海外でロングステイしているのですが、現地の精神科のお世話になります。ある国の国立病院の精神科の待合室には、こんな壁画がありました。

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患者を解放するピネル トニー=ロベール・フルーリー画

これは、精神病患者を鎖から解放した初めての医師として、17世紀のフランスの医師フィリップ・ピネルを讃えた絵です。

この絵をはじめて見たとき、わたしはびっくりしました。もしや、この国では精神科に来ると鎖を付けて隔離されるのではと。もちろん、それは杞憂で人間的な治療を受けていますが。

もし時代が時代なら、わたしは鎖につながれていたかもしれませんし、額にメスを入れるロボトミー手術を受けていたかもしれません。また、断種手術も強制させられていたかもしれません。

こうした恐怖は、精神障害者に限った話ではありません。人類史を溯れば、障害者は今から考えれば背筋も凍るような扱いを受けてきました(もちろん、その時代なりの方法で、障害者の自立を助けようとする政策も数多くあります)。

現代、少なくとも日本では、障害者の人権は、歴史を振り返ると、過去に比べ年々尊重されており、尊厳も守られてきているように感じます。

しかし現実はまだまだ厳しく感じることもあります。たとえば発達障害にフォーカスすれば、猟奇的な事件が起きると必ずと言っていいほど「発達障害の疑い」という記事や掲示板が登場します。

発達障害が感動的に描かれたり、そう狙っているように見える番組にはあまり出会いません。むしろ、逆のことが多いように感じます。

障害者であるだけで、感動を強いられるなんて経験はありません。ただ普通になるように強いられるプレッシャーはあり、それに一生懸命応えようとする自分はいますが。

頑張る障害者を見て、ぐうたらな自分が責められているなんて感じたことはありません。人は人、自分は自分。プラス志向に励まされることはありますが。

がんばれっていう優しさも
がんばらなくていいよという優しさも
両方学んだ。

これは、小林麻央さんのブログの言葉です。わたしは激しく共感します。

今「24時間テレビ」が、ここぞとばかりに叩かれている理由

では、どうして今「24時間テレビ」が、ここぞとばかりに叩かれているのか。

はい、これはメディアに関わっているのでよく分かります。

「番組がつまらなくなった」。

それだけの話です。

紅白歌合戦が年々つまらなくなって、おかしなことになっているのと一緒です。

スポンサーやらタレントやら団体などのしがらみやらが、年々増えていって、もう番組をどうすることもできない不思議なチカラも支配していて、やめるにやめられないもうマンネリで行くしかない生放送だし使っちゃいけない言葉や制約も多すぎて・・・ 

そんな中、裏番組の「バリバラ」が一石を投じた。

そこまではよかった。

でも「感動ポルノ」という切り口に結構な人が残念に感じているのではないかと思います。少なくともわたしは、驚きました。一方で、感動ポルノの考え方を支持する人の多さにも驚いています(気持ちは分かる)。

単に、24時間テレビの演出や構成では、むしろ感動できない。

そこが実のところだと思います。

一方で、NHKの「バリバラ」そのものも、感動ポルノの論法でいくなら、実は完全に「計算し尽くした感動ポルノ」と呼ばなければなりません。

番組では、今回の感動ポルノというテーマなら視聴率もいけるし、バズるはず。そういう企画会議が行われている様子は、想像に難くありません。「バリバラ」だって、計算ずくの演出。司会者は作家が作った台本通りに進行し、イヤホンから聞こえるプロデューサーやディレクターの指示に従ってトークしているに過ぎないのですから。

可愛そうと思う心。弱いところを補う行動。それが人間

さて、異論があって当然だと思いますが、障害者を可愛そうと思うのは間違いみたいな風潮があります。

でも、誰かを可愛そうと思うことってすごい大事なことだと思います。相手の隣に寄り添って助けてあげたい。それは愛だと思います。それが嫌だという人がいるなら、それを尊重して離れてあげればいい。

誤解を恐れずに言えば、すべての人間は何かしらの障害を抱えて生きています。

完璧な人はひとりもいない。仮に完璧でも明日はどうなるか分からない。あるとき、突然病気になったり、ケガをしたり、失業したり、災害に遭ったりします。

だから、誰かの弱いところを、強い誰かが補う。その強い誰かにも弱い部分があって、それを別の誰かが補う。それが、人間の尊さだと思います。

そこで、今元気をもらっている小林麻央さんのブログ。

もし将来、自分ががんになった時、こんな風に強く生きたいと思わされます。自分の知名度を活用して、世の中の役に立とうとする姿勢にも学ばされます。

小林麻央さんのブログがきっかけで、医者だったり、研究者になって、がんを撲滅しようという若者も出てくるかもしれません。同じがん患者や家族の励ましにもなるかもしれません。

そう、感動には、大きなチカラがある。

障害者を取り上げた番組に共感できないからといって、

それをポルノと結びつけたりしないで欲しい。

それに、持ってる障害なんて人それぞれ全く違うし、

性格も、考え方も違っている。

障害者を十把一絡げにするのも、そろそろ終わりにしたい。

 

補足:

障害者は、何らかの原因によって長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受けざるを得ない人のこと。 Wikipediaより 

ここでは、Wikipediaの定義に当てはめて考えています。

 

追記 2016-09-23:

たくさんのブコメ、ありがとうございました。みなさんの誠実なコメントを読み、色んなことを考えさせられました。

この記事を書いたあとで、一番言いたかったことは何か考えました。わたしは、感動の後に付く『ポルノ』という表現に嫌悪感を抱いているということ。感動という言葉に淫らな言葉が掛け合わされたことに、胸の苦しさを感じるのです。

たとえば、もしその言葉の代わりに「感動のお仕着せ」、「感動の過剰演出」、「偽善的な感動操作」などだったなら、この記事は書かなかったと思います。

最後に、下衆なコミックの広告が出て不快だというブコメがありました。おそらく、感動の後に付く『ポルノ』にGoogleのアルゴリズムが反応し、広告を対応させているのだと思います。要するに、不快な言葉だということです。

 

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